フルトヴェングラー:ベートーヴェン《英雄》1944年 
2018/02/15 Thu. 09:13 [edit]
確定申告の時期ですが、提出は3月15日までですね、すっかり今月15日までと勘違いしてて、昨日記入して出してしまった;まあ早いのはいいけど^^;e-taxは使わないけど、国税庁:確定申告書等作成コーナーで簡単にできますね。
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D.ジンマンに続けて、ベートーヴェン《英雄》を新旧取り混ぜて聴いていくことにした。
今日はフルトヴェングラー、音源は1944年、放送用の録音で聴衆はいないらしい、しかしEMIに録音したセッションより、フルトヴェングラーらしい熱演になっている、
交響曲第3番 変ホ長調op.55《英雄》
ウィルヘルム・フルトヴェングラー指揮
ウィーン・フィルハーモニーO.(1944年)
作品に新しい発見をさせるジンマンの緻密な演奏とはさすがに隔たったもので、フルトヴェングラーの音楽表現には長い時間スケールが必要、演奏時間は52分(反復演奏なし)と長めになる、特に第一楽章では激しく燃焼する前の準備としてテンポを落とし加速していく、強弱もそれに伴い、ダイナミックな起伏を存分に聴かせる、第二楽章もひじょうにゆっくり、このLP盤では第二楽章の途中で盤を裏返すことになる;
*ところで第一楽章の終結部、[659]からtrpがテーマを奏でるが、この演奏では赤で書いたように変更されている、
このほうが華々しい、ってことで、のちの指揮者とか出版社が変更したのだろうか?出版譜をいくつか探ってみたが、こうなっているのは見つからなかった;憶えのある範囲ではほかに、カラヤン、ベーム、サヴァリッシュが"赤"に変更した版を採用している。
元の譜はtrpにとっては尻切れトンボみたいだが、テーマはhorn、木管が引き継ぐので差し支えない、これがベートーヴェンの意図した響きと思える。ジンマン、アーノンクール、アバド、ラトル、スウィトナーなど他は元の譜のとおり演奏している、たぶん近年では元の譜どおりが常識なのだろう。
さて、第二楽章、葬送行進曲はじっくりとしたテンポで楽章が1つの鎮魂歌のようだ、後半のフーガに入ったあたりは壮絶な面持ち、最後は目一杯テンポを落とし消え入るように終わる、
スケルツォ楽章は例によってエネルギッシュである。
終楽章、乱奏的な導入のあとは変奏形式、(パッサカリアだとも言われる)楽章全体はドラマチックな構成も持つ、フルトヴェングラーは各部にふさわしい劇的な変化をつけていくが、ややもすれば、聴き疲れする?演奏であるかもしれない。
ご覧いただき、ありがとうございました。
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D.ジンマンに続けて、ベートーヴェン《英雄》を新旧取り混ぜて聴いていくことにした。
今日はフルトヴェングラー、音源は1944年、放送用の録音で聴衆はいないらしい、しかしEMIに録音したセッションより、フルトヴェングラーらしい熱演になっている、
交響曲第3番 変ホ長調op.55《英雄》
ウィルヘルム・フルトヴェングラー指揮
ウィーン・フィルハーモニーO.(1944年)
作品に新しい発見をさせるジンマンの緻密な演奏とはさすがに隔たったもので、フルトヴェングラーの音楽表現には長い時間スケールが必要、演奏時間は52分(反復演奏なし)と長めになる、特に第一楽章では激しく燃焼する前の準備としてテンポを落とし加速していく、強弱もそれに伴い、ダイナミックな起伏を存分に聴かせる、第二楽章もひじょうにゆっくり、このLP盤では第二楽章の途中で盤を裏返すことになる;
*ところで第一楽章の終結部、[659]からtrpがテーマを奏でるが、この演奏では赤で書いたように変更されている、
このほうが華々しい、ってことで、のちの指揮者とか出版社が変更したのだろうか?出版譜をいくつか探ってみたが、こうなっているのは見つからなかった;憶えのある範囲ではほかに、カラヤン、ベーム、サヴァリッシュが"赤"に変更した版を採用している。
元の譜はtrpにとっては尻切れトンボみたいだが、テーマはhorn、木管が引き継ぐので差し支えない、これがベートーヴェンの意図した響きと思える。ジンマン、アーノンクール、アバド、ラトル、スウィトナーなど他は元の譜のとおり演奏している、たぶん近年では元の譜どおりが常識なのだろう。
さて、第二楽章、葬送行進曲はじっくりとしたテンポで楽章が1つの鎮魂歌のようだ、後半のフーガに入ったあたりは壮絶な面持ち、最後は目一杯テンポを落とし消え入るように終わる、
スケルツォ楽章は例によってエネルギッシュである。
終楽章、乱奏的な導入のあとは変奏形式、(パッサカリアだとも言われる)楽章全体はドラマチックな構成も持つ、フルトヴェングラーは各部にふさわしい劇的な変化をつけていくが、ややもすれば、聴き疲れする?演奏であるかもしれない。
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category: ベートーヴェン
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コメント
こんにちは
トランペット、食いつきたいネタですね。
ワルターもやってますね。
楽器の発達に合わせて19世紀後半は旋律化して演奏するのが当然お勤めみたいだったんですよね。
ワインガルトナーとかビューローとかいう人が最初なんでしょうか・・
こういうの沢山ありそうでずっと楽しみが続きますね・・・
unagi #- | URL
2018/02/15 12:39 | edit
unagiさん こんにちは
timpも2音しかなかったので打てない所があるし、ベートーヴェン時代のナチュラル管には出せない音があって、ほかのパートに渡す、ってやり方は普通だったかもしれませんね。
たぶん他の曲にもこんなところありそうです。
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